俳優・藤岡弘、さん独占取材



Fujioka Hiroshi







侍(サムライ)は日本の武士階級とこの階級に属する人を表す言葉です。侍は、中世の日本、10世紀の平安時代に出現しました。当時、日本の幕府(将軍が統制する軍事政権の組織体系)が完成しました。この組織体系のもとでは、天皇が最も位が高く、その後に、大名、将軍、侍、農民、職人、商人と続きます。この時代では、刀や他のいかなる武器でも所持することは、侍や高い身分の人だけの特権でした。身分の低い人が許可なく武器を持ち歩けば、すぐに打ち首にされました。



侍は塾や道場にて、武道の知識、武器の使い方、戦い方を習得しました。彼らは、武器を扱う知識や技能に応じて俸給を得ていました。侍はある程度気楽に生活していたと思うかもしれませんが、本当の武士としての生活は、かなり不安定な状況でした。将軍は、政権を得たいがために、頻繁に天皇や大名との戦いを繰り返し、そして、権力と領地を得たいが故に、他の将軍と戦いました。他の将軍との戦いに負けた将軍は、自分の領地を失いました。侍は、主人である将軍を守るために、彼らの元で軍部隊を組織しましたが、自分たちを守るためにも戦いました。侍が戦いに負けて、何とか生き残ることができたとしても、彼らは主人である将軍を失い、浪人(浪士)となりました。浪人は多くの場合、生き残るために、町から町へ旅する裕福な商人の一団を襲う強盗となり果てました。



しかし、名誉ある侍たちの物語は不朽の伝説となり、多くの日本の映画では、侍が英雄的人物となりました。侍は、勇敢で、寛大で、忠実で、無欲です。二人の有名な俳優、三船敏郎と萬屋錦之介は、多くの映画で侍として主演しましたが、彼らはその後、亡くなりました。現在、藤岡弘、は、日本で最も偉大な侍の俳優であり、ラスト・サムライとして知られています。



15年前、私はこの伝説的な俳優に直接会う機会がありました。私たちは東京で、催し物のために一緒にステージに立ちました。彼の演武は、その夜のメインプログラムでした。



照明を落とした舞台の上で、ラスト・サムライは静かに座りました。一つの照明だけが灯り、彼を照らし出し、彼は目を伏せ、瞑想しているようでした。そして、鞘に入れた刀に手を置きました。音楽が徐々に盛り上がり、その英雄の魂の中にある強い感情を表現する語り手の声が、劇場内に響き渡りました。観客は、緊張感で微動だにしませんでした。そして、辺りが静まり返った瞬間、突然、そのサムライは刀をつかみ、鞘から刀を抜きました。その次の出来事は一瞬のうちにおこったのです。サムライは勇ましく叫んだ瞬間、目の前にあった巻き藁を真っ二つに切り落としました。そして、すばやく後ろを向いて、他の巻き藁を切り落とし、さらに、バックハンドで残りの巻き藁を切り落としました。彼は、神秘的な蝶の舞のように、複雑な連続した動きで、背後にあった竹の束を刀で小さな破片になるまで細かく切りました。彼は刀を鞘に納めましたが、彼の演武の余韻はまだ残っています。竹の破片はまだ宙を舞っていて、塵が立ち昇り、劇場には彼の雄叫びが響き渡りました。そして、突然沈黙し、そのサムライは、静かに座り頭を深く下げ、床に手をつき深々と礼をしました。そして、お辞儀をし、観客を魅了しました。観客は彼の演武で、興奮して、拍手喝采の嵐でした。その場にいた証として、感動でうち震えた空間だけを残し、サムライは姿を消しました。



それ以来、私はこの鉄の男と良い友好関係を持っています。いつもお互い絶えず活動しているので、世界の違う場所からお互いに電話し合っています。しかし、私は彼の出演映画をよく知っていますが、彼という人間を表現するには、ただの良い俳優というだけでは物足りません。彼は、非常に親切で、好意的で、傑出している人物なのです。一度、私は、彼をハンガリーに招待しようと計画しましたが、何かを計画することと計画を実行することは、残念ながら同じことではありません。というのは、私の計画は、あともう少しでうまくはずだったのです。それで、彼をハンガリーに紹介することができなかった埋め合わせに、このインタビューをすることに決めました。



先生、あなたの演武を初めて見た時、あるテレビコマーシャルを思い出しました。日本刀の刃先の上にすごく薄い絹のスカーフがゆっくり落ちてきて2つに切れたのです。日本刀はスカーフのようなすごく軽いものでも十分切れて、剃刀と同じくらいによく切れる。そういった話は本当ですか。教えてください。



私は間違いなく日本刀が世界の武器の中で一番鋭いものだと思っています。でも落ちてきた絹のスカーフを切ることはできないのではないでしょうか。そのコマーシャルの場面は、日本刀の鋭さを強調するために、特殊な映像テクニックを使ったのではないかと思います。世界で最もえり抜きの刀工が作ることができる刀の中で、最も鋭い刀でさえ、何かを切るには「引く」という動作が必要です。実際に、切断したいものの表面を横切るように刀の刃先を動かさないと切れません。もしがっかりさせてしまったらすみません。



あなたがお持ちの刀には何か物語がありますか。



私は何本か刀を持っていますが、確かにそれぞれにまつわる話がありますね。しかし、ある一本の刀は、特別に重い歴史を背負っていると感じています。その刀は私の大昔の先祖の一人から受け継いだものですが、100年以上前のもので、グリップに我が家の家紋が刻まれています。私の先祖はこの刀でいくつもの戦いで敵を討ってきました。代々、この刀の所有者は、自分自身だけでなく子孫も守るためにこの刀を持っていたのです。ですので、この刀を手に持っている時はいつも、この刀に込められた深いかなりの重さを感じます。




Fujioka Hiroshi





あなたの刀はどれくらいよく切れますか。今までにその刀で誰かを切ったことはありますか。



何万片もの竹や木、巻き藁を切りましたが、私は私の刀で生命に傷を付けたことは一度もありません。他には、鉄の塊を切ったこともあります。その時は特別な種類の刀を使いましたが。



若い頃の話をして頂けますか。



私は1946219日に四国の愛媛県で生まれました。 私の父・喜市は、警察で柔道を教えていました。私の母は茶道と華道の先生で、多才な女性でした。母は、日本の伝統的な弦をはじく楽器の三味線と琴も教え、みごとな刺繍もし、料理も上手でした。母は、日本の多くの若い女性に深い影響を与えました。私は母が男性の侍に匹敵するくらいりっぱな女性だと思います。




Fujioka Hiroshi




誰が武道を伝授してくれたのですか。



私の父は、武道に精通していて、人の命を奪うためのあらゆる技法を心得ていました。父は教え子に、剣道における竹刀の使い方、ナイフの投げ方、教えるのが禁じられているようなテクニックまでも教えていました。(※以前の文章では「禁じられたテクニックも知っていた」という内容でした。)



禁じられた技法でも、お父上はあなたに伝授したのですね。



日本の伝統に倣うと、本来は、長男であった私の兄が父から武術を継承するはずでした。父がなぜ兄の代わりに私に伝授したのか未だにわかりません。父の教え、いやむしろ父の「訓練」は、辛くて厳しいものでした。日本の武道は裸足で練習するため、怪我をしやすいので、通常は、畳と板張りの床である道場で習います。しかし、父は、床が石の神社、地面が小石や砂だらけの境内で私を訓練しました。私は地面に倒れるだけで、何度も怪我をしました。父は何度も繰り返し訓練することで、私にどのように生き抜くかを教えてくれました。それは私にとってかけがえのないものとなりました。



お母様はお父上の非常に厳格な訓練方法に反対しましたか。



父は確かに厳しい人でしたが、その厳しさの中にはいつも愛がありました。育てようとする愛を持っていた母には父への深い理解がありましたので、母は父に決して反対したりはしませんでした。でも、一度母に非常に厳しく叱られたことがあります。詳しく説明するために、私の小さい頃の話をする必要がありますね。



小さい頃、私はいつもいじめの標的でした。私より年上の子供たちがいつも私をからかってきて、時々暴力をふるってきました。その時はそれほどひどいいじめではありませんでしたので、私は静かに悲しみや怒りを隠しながら耐えようとしました。しかし、ある時、彼らがあまりに深く私のプライドを傷つけたので、私は彼らに対して武道の技を使ってしまいました。それで、少年の一人が重傷を負ってしまいました。このケンカの事実を母が知った時、母は激怒しました。母は、「私はご先祖様に顔向けできません。あなたがしたことは大きな恥です。もう一度こんなことをしたら、私はあなたを殺して、私も死にます。」と言いました。なぜ暴力をふるってしまったかを説明しようと口を開こうとした時、母は、「ならぬものはならぬ。言い訳はゆるしません。」と言い、母の声は怒りでいっぱいでした。私はショックを受けましたが、この状況がいかに深刻かが分かりました。私は心の底から謝りました。そして、ご先祖様に謝るために、決して憎しみで武道を使わないことを誓わせるために、母は私をご先祖様のお墓の前に連れて行きました。それ以来、私は間違った方法で武道を使うことがどれくらい恐ろしいことかを意識するようになりました。そして、暴力に訴えずに勝つ方法を探し求めました。



日本人にとって、武道を行うことはどのような意味がありますか。



最近、武道はよくスポーツとみなされます。しかし、武道の本当の意味は、日本語で「武道」と言われるように、自分自身をコントロールする「道(方向・方法)」を示しています。もし、「武道」の「道(方向・方法)」が間違って使われたら、誰かを傷つけたり、殺すこともできてしまいます。日本では、「自分自身を制する者は心の中にどんなためらいもない。侍の「道」は、倒した相手に敬意を払い、他を許すことを忘れない。」という言葉があります。私は、日本人が心の中にこの言葉を持ち続けてくれることを願っています。




Fujioka Hiroshi




あなたの出演映画では、あなたが様々な乗り物を運転・操縦しているのを見ますが、陸上、水上、さらに空でも操縦できるというのは本当ですか。



大型自動二輪免許、大型特殊自動車免許、自家用飛行機免許も持っています。スキューバダイビングのライセンスも持っています。



お芝居の話に戻りましょう。藤岡弘、はどのようにして有名なスターになりましたか。



1971年に、私は「仮面ライダー」シリーズで一躍人気者となりました。仮面ライダーはアクションがすごいので、子供たちにとても人気がありました。本郷猛が改造人間だという特別な設定だけでなく、スタントマンなしでバイクアクションや格闘、高い所からのジャンプなど危険なアクションを自分でこなしたという現実的な要素もありました。おそらく、それで、仮面ライダーはこれだけの人気が出たのでしょう。私の名前は急速に知れ渡ることとなりました。



俳優としての幸運」はどれくらい続きましたか。



このシリーズの10話目の撮影の時でした。この回の撮影の時に、私は大きなバイク事故を起こしてしまい、左足を複雑骨折してしまったのです。当然、私は非常に動揺していました。俳優としての命はもう終わってしまったと思いました。周りの人も同じように思っていました。でも、私は志を捨てず、非常に困難な大手術を乗り越え、長期リハビリを経て、その事故から奇跡の回復をし、6ヶ月後にスクリーンに戻りました。私の左足には今でも体の一部として、金属の留め具が残っています。



この後、あなたは後世に残る映画作品にも出演し始めました。あなたが成功を収めた中で何が一番重要なものだと思いますか。



幸運にも、私はいつも英雄、良い人の役をいただきました。もちろん、批判とも闘わなければいけません。1984年に、私はハリウッドでSF映画「SFソードキル」の撮影に挑みました。私は、台本はもちろん、仲間の俳優たちも、侍を理由もなしに誰でも殺すただの殺し屋のように考えていると感じました。彼らは私を軽視しているような感じで、そのうちの一人が「ヘイ、ジャップ」とまで言ってきたのです。でも、私は彼らが私に対して何を思っても気にしませんでした。私は、侍の世界の本質は精神性だと思います。



私の成功の別の理由は、重要な歴史上の人物の役をいただいたということだと思います。私は、織田信長を演じました。新しい社会のシステムを作った最も重要な侍の一人である坂本龍馬も演じ、侍シリーズ「それからの武蔵」の柳生十兵衛も演じました。



あなたは非常に多才であるという定評があります。藤岡弘、はいくつの顔を持っているのでしょうか。



第一に、私は俳優であり、映像、また、映画を作っていきます。第二に、私は武道家として、失われつつある武士道精神と日本の伝統を守っていこうと取り組んでいます。第三に世界中をボランティア活動で訪ねる中、救済活動と主に、武道・文化公演もしております。また、10カ国以上の政治的に不安定な国にも行き、大変な時期のコソボ難民のキャンプにも行きました。




Fujioka Hiroshi





数年前に、あなたは探検隊を率いてジャングルに行きましたが、それほど危険ではありませんでしたか。



ジャングルは、肉食動物、毒ヘビ、毒蜘蛛等、危険な状況でいっぱいでした。時々、私たちは、本当に恐ろしい鳴き声や、音を聞きました。ほっと落ち着く間も、ありませんでした。日中も危険ですが、夜はテントの中にいると襲われやすいのでもっと危険でした。私の探検隊の隊員の一人は毒をもったサソリに刺されて、別の隊員はマラリアにかかり、もう一人は、非常に高い熱を出して2日間意識を失いました。私は隊長として、隊員と撮影班の身の安全に責任がありました。そして、さらに、必ず撮影を成功させなければなりませんでした。いつも死が隣り合わせだと感じましたが、皆を生きて帰らせなければなりませんでした。かなり真剣で、緊張した時間だったと想像できるでしょう。



悲劇的な出来事は全くなかったのでしょうか?



悲惨ではなくて、むしろほんの少し滑稽な出来事。私は、ある街にふと買い物をしに出かけました。ジャングルの旅から戻って、そんなに時間が経っていなかったのですが、先ほど話したように、ジャングルでは多くの危険にさらされていたので、危機センサーが鋭くなっていて私は周囲に対して、自分の五感の危機センサーが敏感になっていました。デパートで歩いていたら、私は張り詰めた空気を感じました。数人の警備員が私を追いかけてきました。私は一体何が起こったのか、把握するまでに時間がかかりました。私の醸し出していた雰囲気で、彼らは危険を感じたのです。彼らは私が危険な犯罪者であると思って、私を取り囲んだのでした。状況が分かるとすぐに私は落ち着きを取り戻し、緊張感をゆるめて、警備員の一人に向って微笑みました。すると、すべての警備員がリラックスして、再びデパートは平和な空気で満たされました。



日本にいる時は、私は状況に応じて、五感を研ぎ澄まして周囲に気をはりめぐらせるべきか、リラックスすべきかが分かるので、私が醸し出す空気を無意識のうちにコントロールできます。しかし、遠くにいる時は、いつも周囲に対して敏感になっているので、危機センサーが鋭く敏感になって、私が発する雰囲気が、まるで戦場にいる時のような緊張したものになっているのです。警備員に追いかけられたこの経験から、私は自分自身をより意識するようになりました。そして、自分自身についてまだ知らない部分が多いこと、鍛える部分があることを悟りました。



あなたは今何に取り組んでいますか。未来に向けての計画・構想はどんなことでしょうか。



私は今までに、侍の心、若者に伝えたいこと、私の出演作品のことなどについての本を7冊書きました。


昨年、私は8番目の著書となる「藤岡弘、の武士道入門」を出版しました。武士道は日常からかけ離れたものと難しく分かりにくいとかんがえられがちですので、この本は一般の方や、若者に分かりやすいように、問答形式で、彼らの目線でユーモアを取り入れて書かれたものです。



また、より多くの方に武士道精神を知って頂くため、イベントや講演等、力を注いでいきたいと思っています。そして、いつか、私は本物の侍映画を作りたいと思っています。侍の生き方を描きたいだけではありません。なぜそういった人々が存在するか、何のために生き、どこへ行くのか、ということを描きたいです。



この作品は、密かに準備して、事前には公表しないでしょう。



ハンガリーにはどんな印象がありますか。



残念ながら、まだハンガリーに行ったことがありません。私はハンガリーが偉大な文化と科学の中心であると知っています。私たちは、ハンガリー人からいくつかの発明の恩恵をこうむっています。また、ハンガリーには素晴らしい建物や豊かな音楽の伝統があります。そして、ハンガリーの俳優は素晴らしいですし、歴史的な映画も傑作ばかりです。自分の映画などでも馬に乗るのが好きなので、馬に乗っているシーンが特に好きです。馬に乗って馬を全速力で走らせながら弓を射るのが、流鏑馬(やぶさめ)と呼ばれる日本古来の伝統です。これは私たちの激しかった歴史につながっているものです。




Fujioka Hiroshi




ハンガリーのショーや映画撮影を計画していますか。



いつもハンガリーに行きたいと思っていますが、 残念ながら、行く予定はしばらくないですね。機会がありましたら、絶対に行く時間をとりますよ。斬の演武をハンガリーで披露できたらうれしいですし、ハンガリーと日本の合作映画はきっと大きな成功をおさめるでしょうね。



最後に、個人的な質問をさせてください。あなたの胸ポケットにいつも2本の特別な形をしたボールペンを目にしますが、それはご家族の形見ですか。



ただのボールペンに見えるでしょう。でもこれはそれ以上のものなのですよ。これは自分の身を守る武器にもなるんです。私はたくさん世界を旅しますし、護衛なしですごく危険な場所にも行きます。もし誰かが私の命を奪おうとしたら、自分の生命を守る為、私はこの一本でその人を倒すこともできますよ。これは、私の父から受け継いだものの一つです。これは我が身を守り、戦う時の武器でもありますから、その秘密は誰にも教えられないのです。



Fujioka Hiroshi video: www.interjapanmagazin.com